最初は、Aさんのお話、素晴らしいなあと聞き惚れていた。
リタイアして時間が出来たので、絵画、ピアノ、料理、と趣味の話。
旅先の電車の駅でストリート・ピアノをご披露された様子をスマホ動画付きでBさんに説明。
その前に行われた発表会のために練習し暗譜していた曲だそうな。
絵画教室でのデッサン、スケッチなど、熱心な取り組みや先生との会話、エピソードを面白おかしく話されていた
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こんな素晴らしい人と直接、話すわけではないにしても、TVの向こうではなく現実的にリアルに知り合いがいるなんて凄いなあ、と喜んでみたり。
Aさんの席のすぐ背後に座るわたしは、Aさんのにこやかな横顔も背もたれの隙間からチラリと見えたりして、時々クスッと笑ったり、テレビかラジオでも聞くかのように楽しんでいた。
、、、が、徐々に、椅子の背もたれ一つ隔てて聞く一方の、わたしの参加の仕方が、居心地が悪くなってきた。
アウェイ感がムクムク。
なんでわたしはここに居るんだろう?と。
明らかに場違いなんじゃないだろうか、と。
だんだん、共通点などまるでない、わたしとのあまりの違いに、もやっとした感覚が生まれてきた
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会話に自分は参加せず相手に知られないところで一方的に聞いているから、相槌を打たなくていいし、表情や反応に気を遣わなくていいから気楽でよいわ〜、だとか、
こんな素晴らしい人と(能力的にも気後れして)とても互角になんか話せないから相手に知られずに聞くだけのシチュエーションで良かったわ〜、
などと、(強引に)メリットを挙げながら、話を聞いていた。
そのうち、日本語聞き取り読解の役に立つわ〜、自分の聴力、理解力のチェックになるわ〜、と、メリット内容の質が段々変化していった。(日本語リスニング、ヒヤリング トレーニングに移行)
と、メリットをいくら挙げても沈んでいく気持ちはなかなか上がって来ない。
内気で内向的で非社交的、なんの取り柄もないわたしは、こんなところき居るべきではない。
自分の存在そのものを否定して、消えてなくなりたいような気になった。
晴れのち曇りのち豪雨。まるで、ジェットコースター。
背後に座っているだけの、なんの関わりもないわたしに、こんなに上がったり下がったりされたら、Aさんも迷惑だろう。
わたしはわたしで、わたしにも何か良いところがあるかも知れない、自分独自の長所や生き甲斐がある、、、なんて自分を慰め、立ち直ろうとしていた。
そんなこんなで、バスは目的地に着いた。
うしろのほうの席に座っていた夫は、バスを降りた後で、
「Aさんうるさかったなあ」と迷惑そうにボソっと言った。
あらまあ。
わたしは、ひとりで自分劇場、喜んだり嘆いたり、上がったり下がったりしていたのに、
夫は「うるさい」の一言、、、なんと、わかりやすい。
ひょっとして他の人も、うるさいと思っていたかも???
バスの中にいた一人一人、感想を聞いて回ったわけではないので、人のこころの中まで確認しようがないが。
ちなみに。
わたしと同じ歳か一つ歳上のAさんに憧憬はあっても、嫉妬や憎しみは全くない
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(生きてきた時代背景は年代ギャップなし、全く同じ)
ではあるが、端から端まで比べものにならないし、競う気持ちは皆無。
しかし、あまりの違いに、自分が価値がないように感じた後、思い直してまた浮上できているんだから、それはそれで良い。
人それぞれ、個性や性格は違う。
そう認識した。
同じ職場や、近所だったり、姉妹や親戚だとかで顔を合わせ続けなければならないなら苦痛かも知れないが、一瞬、ご縁でご一緒するだけの間柄。
もし一対一で話さなければならないとしたら、わたしは、超絶苦手だ。
食事の席などは、絶対に同じテーブルには座らない。
太陽(月ではない)とスッポンぐらい違う。
が、人それぞれ。タイプが違うのは当たり前。
似たような人がグループ化するのも当たり前。
当たり前すぎることである。